山陰観光 旅のポータル
■第2回 後醍醐天皇
苦難の末、鎌倉幕府倒幕を実現南北朝時代を築いた「太平記」主役の一人
学校の社会の授業で必ず一度は耳にしたであろう名前「後醍醐(ごだいご)天皇」。
「太平記」としてその行動・英知が今に伝えられる「後醍醐天皇」は、鎌倉時代末期となる、1324年に「正中の変」を、そして1331年には「元弘の乱」と、天皇親政の妨げになるとして二度の倒幕計画を実行。各地の武士、僧兵に参加を呼びかけ、幕府軍と衝突しましたが、敗北。
鎌倉幕府の執権・北条氏により、隠岐へと配流されました。
隠岐を脱出、再び誓った倒幕への夢は
ココ山陰を舞台にはじまった
しかし後醍醐天皇は、1333年(元弘3年)に隠岐から脱出。伯耆国の豪商「名和長年(なわながとし)」に迎えられて船上山に拠りつきます。
その後、後醍醐天皇は、船上山から討幕の綸旨を各地に発し、鎌倉幕府と対決する姿勢をさらに強め、同年5月ついには足利尊氏などの手により念願の倒幕に成功。自身は京都へと戻り、「建武の新政」を開始するのでした。
そんなことからも後醍醐天皇と山陰との関連は深く、一度は失敗した倒幕の思いをこの地で温め、そして再度実現するまでの重要な時間をこの場所で過ごしたということになります。
後醍醐天皇のその後は、足利尊氏と対立。吉野へと移り南朝を設立。これが俗にいう、室町時代へと続く「南北朝時代」。
その後も北朝側と戦うも勢力は徐々に衰え、1338年(建武4年)8月15日に後、村上天皇)に譲位。その翌日、朝敵討伐・京都奪還の遺言を残し病死したそうです。
ちなみにその御魂は、現在の奈良県吉野郡吉野町の塔尾陵に葬られています。
後醍醐天皇を支えた山陰の名勝
隠岐から脱出した後、たどり着いたと言われる場所。
現在の大山町と、約80余日間を過ごされた船上山のある琴浦町は、その拠点としてゆかりが深いとされ、その中で浮かび上がる人物が、後醍醐天皇を隠岐島から迎え、一族郎党を率いて船上山に立てこもり、王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年公。
以下一族42名の英魂を祀ったという元別格官弊社として語り継がれている「名和神社」をはじめ、この地には、「太平記」のロマンが蘇るスポットが数多く残されています。
「太平記」とは?
後醍醐天皇が倒幕運動を開始した正中の変(1324)から、足利義満の将軍職就任(1367)まで、約40年間の戦乱を描いた「平家物語」と並ぶ日本の代表的な軍記物。作者は、一般的に小島法師と言われていますが、詳細は不明とされています。
■後醍醐天皇ゆかりの地を歩くなら
●お腰掛けの岩(おこしかけのいわ) (大山町)
元弘3(1333)年に、隠岐の島を脱出された後醍醐天皇が、無事に名和湊(現在の御来屋港)に到着された際、しばらくの間お腰掛けになった岩と伝えられています。30年ほど前までは海の中にありましたが、漁港の改修により、そのままの位置で海面から1.4m持ち上げられ、現在では陸の上に位置しています。すぐ南には、後醍醐天皇が御来屋に上陸されたときに、しばらく天皇をかくまった家に対して、後に鳥取藩がその功を賞して建てたとされる「元弘帝御着船所の碑(げんこうていごちゃくせんじょのひ)」もあります。
●船上山(せんじょうざん) (琴浦町)
「太平記」によると、合戦を決意した名和長年は近くの要害山「船上山」に天皇を向かえ、名和軍150騎を従えて立て籠もりました。幕府軍約2000騎が山を囲むものの、長年は白布五百反の旗に近国武士の紋を描いて立て大軍がいるように見せかけました。船上山の上から降り注ぐ矢と、折りからの暴風雨に幕府軍がひるんだ隙に、長年は射手を率いて猛攻撃をしかけ、幕府軍1000騎余りは堪らず進退を失って谷底に。こうして長年は、船上山で勝利を収めたのです。
●名和(なわ)神社 (大山町)
後醍醐天皇を隠岐の島からお迎えし、王事に奮戦した南朝の忠臣・名和長年公をはじめ、一族42人の英魂をまつった元別格官幣社。今の名和神社は明治16年、旧社(今の氏殿神社)をそのままに新しく建てたもの。また、この地は名和長年の倉の跡との言い伝えがあり、現在でも、社殿の裏から焼き米が出てくると言われています。
●住吉神社 (大山町)
摂津の国にある官幣大社・住吉大社の分霊をまつってあります。後醍醐天皇が隠岐の島から御来屋に上陸した際、コチラに奉幣したという伝説があります。隔年の11月3日は、住吉船曳神事(すみよしふなひきしんじ)で賑わいます。
●長綱寺(ちょうこうじ) (大山町)
名和公一族の菩提寺で、後醍醐天皇・名和長年・長年の長男の義高・三男の高光の位牌がまつってあります。寺紋は帆掛け船で、後醍醐天皇から名和氏に賜ったものです。
●名和公一族郎党の墓(なわこういちぞくろうとうのはか) (大山町)
名和長年の菩提寺である長綱寺の裏山の山頂にあります。大小200基ほどの五輪塔があり、これらは長年が船上山で鎌倉幕府と戦ったときに戦死した一族をまつったもの、あるいは館に残った一族の女性や子どもたちの墓とも伝えられています。
●的石(まといし) (大山町)
縦170センチメートル、横150センチメートルの大きな石。弓の名手であった名和長年が、弓矢の稽古をするときに的にした石と伝えられています。また、雨が降りやんだ後、太陽が照り出すと、石の表面に白く二重の輪が見えるという話も。
●氏殿神社(うじどのじんじゃ) (大山町)
名和神社の旧社殿。もとは名和長年の館の跡といわれ、地元の人が「氏の殿」とまつっていましたが、江戸時代、鳥取藩主池田光仲公の命令で、「氏殿権現」としてまつられるようになりました。
●三人五輪 (大山町)
五輪塔は5基あり、向かって左から名和長年。長男の義高、三男の高光の首が埋められていると伝えられています。
●船上山行宮(あんぐう)碑 (琴浦町)
船上山山頂上北側の小丘「お休み場」では、西の島根半島から北の隠岐島まで一望できます。後醍醐天皇がこの地でたびたび野立てされたと伝えられ、大正13年、行宮碑が建立されました。
●天皇水 (琴浦町)
船上山の勝利の後、後醍醐天皇は上洛のために諸国の武士を船上山に集めました。集まった西国中の武士達の数は、船上山の周囲20〜30里にも及び人馬の波で埋まったといいます。その下山途中、後醍醐天皇がそばの大岩を指差され「この岩を起こせば水が湧いて出る」と言われたところ、その通り清水が湧いて出たそうで、この伝説の地には、今も蕩々と清水が湧き出しています。
●智積寺(ちしゃくじ) (琴浦町)
室町末期の1530年に現在の地に創建。以前は船上山の山上にあり、合戦(1333年)の際、後醍醐天皇が立籠った寺として有名です。その昔、船上山の山上は山岳仏教の聖地として多くの寺院が軒を連ねていましたが、度重なる戦乱で多くの寺院は荒廃。智積寺も、山を下りて現在の地に草庵を営みました。境内にある梵鐘は、鳥取県の指定保護文化財にもなっています。
●金持(かもち)神社 (日野町)
後醍醐天皇を守護するため、挙兵した金持景藤が必勝祈願をしたと伝えられる古社。縁起のよい名前から今では、開運・金運を求めて多くの参拝客が訪れています。
●下蚊屋(さがりかや)地区 (江府町)
隠岐へと島流しのため遷幸する際、蚊帳(蚊屋)を吊り、後醍醐天皇に休んでいただこうとした場所。蚊屋を下げられたので、この地名になったといわれています。
●二部(にぶ)神社 (伯耆町)
同じく隠岐へと島流しのため遷幸する際、この付近で、後醍醐天皇が休憩されたという伝説が残されています。
後醍醐天皇と隠岐
「後醍醐天皇と隠岐」
後醍醐天皇の倒幕への思いを語る上で欠かせない場所、それが元弘2年(1333年)4月、鎌倉幕府との戦いに敗れた後醍醐天皇が遷幸された「島根県・隠岐」。脱出し、伯耆の国で立ち上がるまでの約1年間を過ごしたとされるこの地には、今でも数多くの名所・伝説が残されています。
後醍醐天皇の行在所(あんざいしょ)があったと伝えられる島前・西ノ島町の「黒木御所跡」。そして島後・隠岐の島町(旧西郷町)にある「隠岐国分寺」。隠岐での1年間の滞在場所がどちらであったのか、真実はいまだ解明されていません。ほか、後醍醐の寵姫の阿野廉子の三位局屋敷跡や監視を行っていた「見付島」などの史跡が存在し、古文書も保管されているそうです。
空気の澄んだ晴れの日、島前・知夫村にある「赤はげ山」からは、遠く、海を渡りたどり着いたという大山麓の海岸線を望むことも。当時の脱出劇を思いながら歴史ロマンにふれる時間もいいかもしれません。詳しくはコチラ「しまね観光ナビ」のページで。
戀戻る
山陰観光 旅のポータル