飯梨川右岸、標高184mの月山の地形を利用した複郭式の山城(史跡)。
主に尼子氏の居城として知られ、城郭は内郭、外郭から構成され、塩谷口、お子守口、菅谷口の三つの入口があり。周囲は断崖絶壁が多く、防衛上、軍政統治上も欠くことの出来ない立地条件を具備し、中国地方における中世城郭の代表的な城跡として重要視されていました。
文治元年(1185年)佐々木義晴が出雲の守護として入城以来、それ以後塩冶、佐々木、山名、京極、尼子、毛利、堀尾の各氏が歴代城主として交替。そのなかで最も栄華を極めたのが引用11ヶ国を領有した尼子氏の時期である。慶長16年(1611年)堀尾吉晴の歿するまでの427年間、軍政上の一大拠点を築き上げていました。
現在は、往時を偲ぶ建物は一つも残っておらず、中腹の山中御殿から山頂の本丸にかけて石垣が保存されているのみ。
当時の母屋と侍所が復元された花の壇、桜の名所である太鼓壇など一巡して約1時間。
山頂部の七曲の登城道を登ると、西の袖平、三の丸、二の丸、本丸が連郭式に配置され、特に二の丸の周りを囲む石垣や、本丸との間の深い掘切は必見です。
〜尼子氏と月山富田城〜
時は戦国時代。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い、尼子経久の代にして安芸、備後、備中、備前、美作、播磨、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐・・・山陰山陽11カ国をその手に握り、まさに全盛期を迎えます。
その居城「月山富田城」は、幾重にも連なる断崖絶壁の砦が築かれ、麓を外堀のごとく飯梨川が流れるため、山そのものが天然の要害となっている難攻不落の城。
その後は、約180年間の栄華が続くも、宿敵である毛利氏により衰退の一途をたどることとなるのです。
永禄6年(1563年)、本格的に尼子討伐に乗り出した毛利元就は3万の大軍を率いて尼子氏の領内に攻め込んできました。
これに対して尼子氏は支城と本城の月山富田城に篭城を決めますが毛利軍は次々に支城を攻略し、「月山富田城」の近く「白鹿城」まで迫ります。
「白鹿城」救援として1万の大軍が「月山富田城」を発しましたが、結局は毛利軍の迎撃の前に敗れ去ることに。
まもなく「白鹿城」は落城。その勢いで毛利軍は「月山富田城」を囲み、管谷口、御子守口、塩谷口の三方から総攻撃を開始しましたが、断崖絶壁が多く難攻不落の堅城で知られる「月山富田城」は落城する気配もなく、元就は一旦領国の安芸に撤退することになります。
そして元就は、永禄9年(1566年)再び「月山富田城」を包囲。
「月山富田城」の尼子軍は次第に食料がつき始め、しかも義久が元就の謀略にかかり重臣を殺してしまうなど城内の士気も低下し逃亡する者が続出。遂には300人あまりが残っているだけとなってしまったのです。
この合戦の中、尼子十勇士の中心的存在であった山中鹿之助が、敵方の大将品川大膳を討ち取るなど善戦しますが、ついに義久は元就からの降伏の申し出を受け、「月山富田城」は開城。
こうして長年に及ぶ合戦の末、難攻不落を誇った「月山富田城」もついに落城し、戦国時代の初め頃には中国地方の覇者であった尼子氏は毛利氏の軍門に降り、事実上滅亡することとなったのです。