江戸時代初期、萩の陶工である倉崎権兵衛を祖とし、松江藩の御用窯として創業したのが始まり。一時期製造が中断されていましたが、享和元年(1801年)に松平不昧公が名工・長岡住右衛門に再興させたもので、「御立山焼」や「御山焼」と呼ばれていた名称が現在の名になったのは明治の頃からです。
作品は、茶を愛する代々の松江藩主に寵愛されただけあり、今でも抹茶碗や水差しといった茶道具がほとんどを占めています。楽山焼の特徴は、刷毛目と「伊羅保写し(いらほうつし)」といわれる技法。器は、同名の釉薬を使って仕上げられた落ち着きのある淡い山吹色。
御用窯としての格式と品位を重んじる楽山焼では今なお、土灰(いしばい)づくりとその調合に関しての工夫が施されつつあります。