松江城の西側に位置する「月照寺」は、松江藩主を務めた松平家の廟が納められている古刹。約1万uの広さを持つ境内には、本堂や宝物殿に続き、初代から第9代藩主までの廟所が厳かに並んでいます。
もともとは「洞雲寺(とううんじ)」という禅寺で、長い間荒廃していましたが、徳川家康公の孫に当たる初代藩主・松平直政公が、生母・月照院の霊牌を安置するために浄土宗の「蒙光山(むこうさん)月照寺」として改称復興したのが始まり。その後、2代目の綱隆が父の遺命により境内に廟を造り、山号を「歓喜山」に改めました。以来、9代にわたり藩主の菩提寺に。保存状態が極めて良好な墓所ということで、平成8年(1996年)に「松江藩主松平家墓所」として国の史跡に指定されました。
月照寺の唐門をくぐって真正面に見えるのが、茶の湯を愛し、松江にその文化を広めた大名茶人として知られている第7代藩主・不昧公の廟です。こちらの廟門は、指物の名工として不昧公お抱えの職人であった小林如泥(こばやしじょでい)の作といわれており、公の好物だったブドウが透かし彫りにされています。如泥は不昧公より5年早く亡くなったので、この廟門が本当に如泥の作なのかどうかは異論もあるようです。しかし、見事な彫刻は如泥ならではの技術という感が強く、二人の親交の深さ、不昧公の生前からここが廟所に定めてられていたということから、如泥があらかじめ設計していたものではないかと見られています。
不昧公の廟所の左手には初代・直政公の廟所がありますが、こちらの廟門も桃山文化の作風が巧みに取り入れられた傑作で、2つの廟門は共に島根県の有形文化財に指定されています。
第6代藩主・宗衍(むねのぶ)公の廟所へ赴くと、大亀の石像に出会います。大人の背丈ほどもある迫力の大亀は、その背中に高さ約3mの「寿蔵碑」を載せています。宗衍公が50歳になった折、息子である不昧公が父の長寿を願って建立したものですが、実はこの大亀にはウソとも誠ともとれる奇妙な伝説が残っているのです。諸説あるのですが、その中の一つが、松江をこよなく愛した明治の文豪・小泉八雲の随筆『知られざる日本の面影』に登場します。
【月照寺の大亀伝説】
松平家の藩主が亡くなられた後、亀を愛でていた藩主を偲んで大亀の石像を造りました。ところが、その大亀は夜になると動きだし、蓮池の水を飲んだり、城下の町で暴れ人を食らうようになったのです。
困り果てた寺の住職は、深夜、大亀に説法を施しました。すると大亀は、「私にもこの奇行を止めることはできません。あなたにお任せいたします」と、大粒の涙をポロリポロリと流しながら頼んだといいます。そこで、亡くなった藩主の功績を彫り込んだ石碑を大亀の背中に背負わせて、この地にしっかりと封じ込めたのでした。
必死に首を持ち上げる大亀の表情を見ていると、このような伝説も本当に思えてくるようです。このお話のほか、暴れる大亀の首を侍が刀で切り落としたという伝説もあります。その話を裏付けるかのように大亀の首には痛々しい傷跡が残っており、なんだか妙にリアル。しかも、大亀像が鎮座しているのは大杉に囲まれ昼も薄暗い墓所なので、何が起こってもおかしくないような空気が漂っていて、もしかしたら伝説のように大亀が動きだすのではと、ちょっぴり冷や汗タラ〜リ……。しかし、息子が父の長寿を願って建立したという親孝行なエピソードもあり、大亀の頭をなでると長生きできるといわれています。背の高い亀の頭をなでるのは至難の業ですが、頑張って腕をあげて触れてみてください。
この大亀伝説に加え、人魂の目撃談などもあり、ミステリアスなスポットとして知られる月照寺ですが、約3万本のアジサイが咲き誇るお花見スポットという顔も持っています。「山陰のアジサイ寺」として有名で、6月中旬から7月上旬にかけて参道や廟門、苔むした石灯籠を青や紫の花が彩ります。周囲の燃えるような緑も手伝って、境内全体が梅雨のみずみずしい美しさに包まれるので、訪れるにはオススメのシーズンです。