堀尾吉晴により、築城開始から5年の歳月をかけ、慶長16年(1611)に完成。
本丸にそびえる天守閣は、桃山初期の城郭の特徴を残し、華やかな造りを排した実戦本意の造りとしても知られています。
別名「千鳥城」とも呼ばれる城の外壁は大部分が黒塗りの下見板張り。外層5層、内部6階で、城内には松江の街や城の関連資料が展示され、最上階は望楼式になっていて、松江市街を一望できます。
天守閣の最上部の屋根にあるシャチホコは、木彫りで銅張り、高さは約2mもあり、これは現存しているモノでは最も大きいもの。
山陰随一の名城として広く全国より観光客を集めています。
〜松江城ストーリー〜
実戦向きの構造に戦国の世を思う
松平7代藩主・不昧公により城下の文化の拠点に
堀尾吉晴は、慶長5年(1600)の関ケ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として広瀬の月山富田城に入城。
しかし、月山富田城は周囲を山々に囲まれた中世以来の山城で、大砲などを使う近代戦に不利であったこと、また家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭く、交通も不便でした。そのため宍道湖のほとりの標高28mの亀田山に築城を計画。慶長12年(1607)に着工。5年間にわたる難工事の末、慶長16年(1611)に完成しました。
城郭の広さは東西360m、南北560mもあり、周囲に幅20〜30mの内堀をめぐらしていました。その堀尾氏に替わって寛永11年(1634)若狭小浜から京極忠高が松江城主となり、斐伊川などの治水に努めましたが、寛永15年(1638)病死したため京極氏は1代で終わりました。
同年、徳川家康の孫にあたる松平直政が信濃松本より18万6千石で入城。
以後、松江城は松平氏10代の居城として明治維新を迎えます。
松平氏の中でも七代藩主治郷(はるさと)は政治手腕だけでなく、茶の道にも通じ、不昧(ふまい)と号して茶道石州流不昧派の元祖となり、現在でもなお松江の人々に不昧公の名で親しまれています。
松江城は明治になって城内の建物は天守を除きすべて取り壊され、天守も米100俵(180円)で売却されるところでしたが、有志の保存運動で救われ、山陰地方で唯一の天守が今に残ることとなりました。