松江市を南北に分けるように流れている大橋川には、4本の橋が架かっています。長さや大きさでは他の橋にかなわぬものの、最も深い歴史を持つのが「松江大橋」です。初代の橋が出来上がったのは、江戸時代の初期、慶長13年(1608年)のこと。それまでは人がやっと通れるほどの竹の橋で「カラカラ橋」と呼ばれていましたが、松江藩の初代藩主・堀尾吉晴公が松江城を築城する際、馬や荷車で資材を運び込むためにより大きな橋を造ったといわれています。その後何度も洪水や事故に遭い、その都度架け直され、現在の橋は17代目。昭和12年(1937年)に完成したものです。明治7年(1874年)の14代目から今の名前となり、名実ともに松江市を象徴する大橋となりました。
松江大橋の欄干は御影石でできており、唐金の擬宝珠(ぎぼし)が飾り付けられています。第5代目藩主・松平宣維(のぶずみ)の正室岩姫が、嫁入りの際に京より持参した擬宝珠を6代目の橋に取り付けたことに由来するものだとか。橋中央の両サイドには川のほうへせり出した展望台があり、宍道湖や大橋川両岸の街並み、行き交う船などを眺めて“水の都 松江”の情緒をたっぷり堪能することができます。
橋には悲しい歴史も残っています。初代の橋の建設時、洪水や軟弱な地盤に悩まされたので、川の怒りを静めるために人柱をたて、足軽の「源助」が生きたまま橋脚の下に埋められたといいます。現在の大橋建設時にも、橋脚の下にいた深田 清技師に鋼鉄製の容器が落下し亡くなるという事故が起こっており、当時の新聞では「痛ましい昭和の源助」と報じられました。大橋の南詰にある「源助公園」には、源助の供養碑、深田技師の追悼碑が建っており、大橋を今も見守り続けています。
また公園内には、たたくと鐘ような音がするという「大庭の音のする石」がベンチのように置かれています。この石には、一定の距離以上動かすことはできないという伝説があり、「松江城に運び込もうとしたが、にわかに重くなり、1000人がかりでも動かせなくなった」といわれています。
この松江大橋から新大橋までの大橋川北岸には、約400mの柳並木があります。並木道の途中に「小泉八雲宿泊址」と記された石碑が建っていますが、これは、明治の文豪・小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が初めて松江を訪れたときに滞在した「富田旅館」の跡。明治23年(1890年)8月30日、船で松江に到着した八雲は、富田旅館に泊まり、松江大橋を渡る“カラコロ”という下駄の音に心惹かれたといいます。川風に長い枝をユラユラとそよがせる柳の下を散策すれば、八雲が愛したノスタルジックな“明治の松江”を少〜しだけ感じられそうです。夜になれば松江大橋の欄干にポツポツと明かりが灯り、大橋川に映るオレンジ色の光が幻想的な雰囲気を醸し出します。車で通り過ぎるだけではもったいない。ぜひ自らの足で歩き、松江の歴史と風情を感じてみてください。